電車が1時間遅延する「日常」のなかで「朝の混雑の影響で30分前後の遅れで運転しています。 列車到着までしばらくお待ちください」駅のホームで、あるいは電車のなかで、遅延のアナウンスが流れるたび、思い出すことがある。それは、2019年ごろにイタリアに1週間旅行に行ったときのことだ。初めて見るヨーロッパの街並みに胸をときめかせながら、ローマやフィレンツェ、ヴェネチアなどを友人とまわった。イタリアは広大なので、電車移動がデフォルトとなる。そんななか、朝の8時ごろにヴェネチアからミラノ行きの電車に乗ろうとしていたとき、駅に着いたわたしたちを待ち受けていたのは空っぽのホームだった。「あれっ、もしかして時間を間違えたのかな」と旅の素人なりに懸命にリサーチしてスクショしておいた電車の時刻表を見直す。初めての土地で交通機関を使うことは未知なる冒険だ。だからこそ、ネットに掲載されている時刻表は新しいものなのか、乗る日は平日なのか祝日なのか、そもそも行き先がちゃんと合っているかを入念に確認してスケジュールを組んでいた。本数も少ないので、1本逃せば命取り。実際に、この旅行中にもナポリから船でアマルフィ海岸に渡るとき、間違った行き先の船に乗ってしまい、小さな島を「これがアマルフィか〜」と散策しながら、30分も気付かなかったことがあり、わたしたちはちょっぴりナーバスになっていた。(慌てて船を調べると、5分後が最終便だった。危ない!)そんな事件を経ての電車移動だったので、わたしたちはパニックに陥った。待てど待てど乗りたい電車が来ないのだ。なのに、時刻表には確かにその時間が記載されている。時刻表によれば、絶対に8:24に電車が来るはずなのである。痺れを切らして駅の入り口に戻り、駅員さんに聞いてみる。すると、「ソーリー、電車が1時間遅延しているんだ」と言われた。「嘘だ!」と思わず友だちと顔を見合わせる。だって、駅のホームにいた人たちが誰も動揺していなかったから。遅延のアナウンスも一切ないなかで、バッグから本を取り出してベンチで読む人、友人と談笑を続ける人、パンとコーヒー片手にむしゃむしゃと食事をしている人…。あまりにのんびりとしていた。だから、わたしたちも電車が遅れているとは微塵も思わずに「自分たちが間違っているんじゃないか?」と疑惑の矛先を自分に向けていたのである。「ははぁ、ここでは電車は『時間通りに来たらラッキー』ぐらいの認識なんだな」と思い、わたしたちもベンチに腰をおろして、いつ来るかわからない電車を待つことにした。それでも不安は拭いきれず、チラチラと時計を確認する。もし、事故で終日電車が動かなかったらどうしよう。行きたい美術館が閉まってしまったらどうしよう。限られた時間のなか、分刻みでスケジュールを組んでいたわたしの頭のなかでそんな思考が渦巻いていた。1時間後、電車がゆっくりとホームに滑り込んできたとき、ホッと胸を撫で下ろしたことを覚えている。それと同時に、毎日のように時間ぴったりに電車が到着する、日本の(特に都会の)交通機関のありがたさにも気付いた。規則正しく交通網が動いていることは、当たり前のことじゃないんだと。電車に乗り込み、すっかり安心した心持ちで目を瞑った。「ただの事象」に対する「意味づけ」がすべてを左右するいつもと同じように電車に乗っていても、ゆったりと揺れに身を任せられるときと、何度も乗換案内を確認しながら、駅に到着する瞬間を今か今かと待ち侘びるときがある。でも、どんなときでも、電車の動くスピード自体は何も変わらない。電車は基本的に決められたスケジュールに沿って動くけれど、何か事故があれば止まらざるを得ない。ただ、それだけなのだ。それなのに、わたしたちは穏やかに「待つ」ことができない。「どうしてこのクソ忙しいときに止まるんだ!」とか、「豪雨ごときで遅延するなんて弱すぎる!」と責め、改札横の窓口に向かって文句を垂れる。そんなことを言ったところで、電車はすぐには動けないのに。たとえば、朝7時の電車がトラブルで30分遅れているとする。このとき、寝坊してギリギリの電車に乗っている人は「なんで遅れてるんだよ!」と舌を鳴らしたくなる。一方で、特に何も予定がない人は、「遅延してるんだなぁ」なんて気持ちで、穏やかに電車を待てる。「電車が遅延する」。この事象自体には、何の意味もない。駆け込み乗車をすればドアは再び開き、雪がひどければ線路を塞がれ、動物が飛び込めば急停車する。そんな予測不可能な事態で遅れてしまうだけ。でも、わたしたちはその事態が自分にとって不都合だと感じた瞬間に、怒りが湧いてきてしまう。すべて自分自身の問題でしかないのだ。そうして発生する事象をコントロールすることはできない。でも、事象に対する「意味づけ」によって、受け取り方は変わっていく。だから、同じ電車の遅延でも、怒り狂う人と冷静な人がいるのだ。でも、「チッ! 」と大きく舌を鳴らす人のことを、1ミリでもわからないわけではない。「そんなにイライラするなら自家用車で行けばいいのに」と心のなかで思うこともないが、おそらく彼らは盲目的に信じているのだ。「自分の乗る電車が、遅延するはずがない」と。イタリア旅行中、よく晴れた天気だったにも関わらず、前日の雨の影響であの有名な「青の洞窟」を見られなかったとき、わたしたちは落胆した。でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。もともと「見られる確率は40%しかない」という情報を知っていたからである。大きなことでも小さなことでも、運が良ければ思い通りに行くけれど、大半のことは思い通りにいかないものだと割り切って、「期待しない」というスタンスでいくのが1番いい。そしてそれは、「時間通りにいかないこと」を積み重ねていくことで、得られるものなのだと思う。とにかく、一度海外に行ってみて体感してみてほしい。予定を狂わされてみてほしい。自分の思った通りに事が進むのは奇跡なんだと。遅延といえば、うちの近所を走るバスも、基本的にいつも遅れている。始発ならまだしも、中間ぐらいの停留所なので、道中にいろんなことがあるんだろうなぁと思いながら、いつもちょっと早めに家を出るのだが、それでもやっぱり時間通りにバスが来た試しがない。諦めて別のバス停まで歩こうかしら、と考えていたら2台連続で来ることもある。決断できずにウジウジと留まっていたら15分が過ぎて、余計動けなくなることもある。時刻表はあってないものなので、何も来なければ読書に励むし、たまたま時間通りに来たら、「ツイてる!」と喜んで飛び乗る。そんなもんだから、ちょっとやそっとの遅延には動じない人間になってしまった。何気なく暮らしていると、すべてがあらかじめ決められた時間通りに動いているのだと、錯覚しそうになる。でも、「時間通りにいかない前提」で過ごすぐらいが、心穏やかに生きられるんじゃないかと思う、今日このごろだ。